CINEMA DISCOVERIES

Profile

甲斐博和

1977年7月、鹿児島県生まれ。
桐朋学園中等部、高等部と経て、17歳から2年間、チリ・サンチャゴ市やアメリカ・ルイジアナ州で暮らす。帰国後、筑波大学人間学類に入学。教育学、心理学を中心に学ぶ。2001年、大学を卒業後、役者の道へ。東京乾電池研究生を経て、2003年に自身の劇団「TOCA」を立ち上げる。以降10年間、「TOCA」の作・演出として隔年で演劇公演を続ける。2006年より独学で映画を製作。株式会社アプレ主催のWS作品として、『靴が浜温泉コンパニオン控え室』(2007/監督 緒方明)での共同脚本や、大阪CO2での助成作品などを経て、隔年で短編映画を中心に製作を続ける。国内を中心に受賞多数。現在はTOCA.TOKYO代表として脚本・監督を手がけている。初長編映画「イノセント15」(2016 監督・脚本)では、国内外にて受賞・劇場公開を果たす。

受賞歴

◯『hanafusa』(2006/33min)(初監督作品) 2006年「第31回 ぴあフィルムフェスティバル」審査員特別賞
◯『浴槽と電車』(2010/32min) 2010年「第14回 水戸短編映像祭」グランプリ
◯『イノセント15』(2016/88min) 第9回 田辺・弁慶映画祭 映検審査員賞 (2015)

Information

▼「TOCA」公式HP

https://toca.tokyo

▼Twitter

https://twitter.com/tocatokyo

Close Up
監督の魅力に迫るQ&A

Q. 映画制作をはじめたきっかけは?

劇団で演劇をやっている頃、自分のアパートが取り壊されることを知り、その場所を残したいと思ったことと、演劇だけではなく、「残り続ける作品」をつくりたいと思ったことがきっかけです。

Q.影響を受けた作品、監督は?

一番最初に映画を勉強したのは「小津安二郎語録」だったので、小津安二郎監督。
影響を受けた作品は
「ポゼッション」アンジェイ・ズラウスキー監督
「マッチ工場の少女」アキ・カウリスマキ監督
「ピアニスト」ミヒャエル・ハネケ監督
「奇跡の海」ラース・フォン・トリアー監督
「息もできない」ヤン・イクチュン監督
「いつか読書する日」緒方明監督
「どんてん生活」山下敦弘監督
「人情紙風船」山中貞雄監督
「幕末太陽傳」川島雄三監督
「四畳半襖の裏張り」神代辰巳監督

Q.一緒に仕事をしたい役者は?

田中裕子さん
柄本明さん

Q.注目している監督は?

ヨルゴス・ランティモス監督とヤンイクチュン監督の次回作。

Q.関心のあるテーマは?

愛憎
移民
地方都市

Q.映画制作の過程で、チャレンジングと感じることは?

その瞬間にしかない役者さんの人間味をシーンの中で表現してもらえる瞬間を作ること

Q.監督業の面白さは?

自分が思い描いていたものより、役者さんやスタッフさんの力を借りて、想像以上のものができること。

Q.映画づくりでこだわっていることは?

まずは脚本を一番大切にしたいし、脚本ありきでスタートしたい。

Q.映画づくりで成し遂げたいことは?

時間が経っても色褪せない作品を残すこと

Q.映画とは?

意図を伝えるものではなく、観る側に何かを想起させるもの。
自分にとって大切な映画は、意味がわかる・わからないを超越して、胸を掴まれて揺さぶられる瞬間があるもの。

Q.インディペンデントという領域の魅力は?

「大人の事情」にからめとられずに表現を追求できること。

Q.映画を見る時に、何を期待しますか?

すごい、という言葉が漏れるような瞬間。

Q.映画の中のキャラクターとして生きるとしたら、どの映画の誰がいいですか?

寅さん

Q.1年に一度だったり、数年に一度など定期的に必ず見る映画は?

ポゼッション

Q.好きな食べ物は?

カツサンド
煮込み

Q.愛読書は?

川端康成の短編集、「掌の小説」

Q.邦洋問わず、お気に入りのスターは?

ニコラス・ケイジ

Q.居心地の良い場所はどこですか?

熱海

Interview

インタビュー・テキスト:岩根彰子

「スタッフさんがちゃんと生活できるようなお金を回せない映画はもう撮りません」って宣言したんですよ

お芝居から映画へ軸足を移したのは「見てもらう」ため

——甲斐監督はもともとお芝居をしていて、そこでは役者もされていたそうですね。そこから映画の世界へ活動の場を移したのは何故でしょうか。

もともと映画は全然見ないタイプでした。ただ、子どもの頃からずっと体ひとつでできることを仕事にしたいと思っていて、中2のときにお風呂で「役者になろう」と決めたんです。ところが高校には演劇部がなくて、その後、父の仕事の関係で南米のチリに転校することになり、現地の学校には演劇部があったんですが、さすがにそれはついていけないなと。そこで大学に入ったら絶対に演劇をやろうと思っていたんですが、大学の演劇部がちょっと物足りなくて……。休学して東京へ来たときに、プロの役者さんたちのユニットにちょっとだけ参加させていただいて、すごく刺激を受けたんです。別に学生演劇がどうこうというわけではないんですけど、自分にはまったく歯が立たないところでやりたいという気持ちが生まれ。東京でお芝居をするために大学を辞めようと思って、家族の前で土下座して「大学辞めさせてくれ!」って言ったんですよ。僕には姉がいるんですが、そのとき姉に「大学は卒業しときなさいよ」って言われて、彼女は高卒だったので「高卒にはわかんねえよ!」って言って姉に蹴られたこともありました(笑)

——それは蹴ったお姉さんが正しいですね(笑)

それもあって、とりあえず卒業しようと決めて。卒業後、東京乾電池に入ったんです。芝居も面白かったんですが、それ以上に脚本を書くのが面白かった。結局、僕の実力不足だったのか正研究員にはなれなくて。だったら自分でやろうと、演劇ユニットのようなものを立ち上げて活動を始めました。当時、似ていると言われたのは劇団ポツドールさん。人間を生々しく描く感じというか。ただ、話もテイストも違うんですけどね。僕の場合はだいたい旅館が出てきて、そこでの愛憎劇みたいな話でした。実際に旅館でお芝居を打ったり、喫茶店で普通のお客のふりをしている人たちが急に喧嘩を始めるみたいな。その場所でしか起こりえない物語を書くのが好きだったんです。そういう生々しい、本当にそこで起こっているんじゃないかと思うような芝居をその場所でやる、ということを何度かやってみたんですが、まあ、お客さんが来なかった。自分のなかではすごく面白いことをしていると思っていたので、それがすごく悔しくて。だったらこれをDVDにしたら、もう少し多くの人に見てもらえるんじゃないかと考えて映画を撮りはじめたんです。

——なかなか珍しいきっかけですね。

それで映画を撮りはじめたら、写真や洋服、音楽といった自分の好きな物が自分の好きなように使えるのが楽しくて。いろいろな場所で撮れるし、お芝居と違ってお客さんに「この角度から見てね」って言えることもすごく気持ちがよかった。それでだんだん映画の方にはまっていったんです。結局10年弱お芝居をやって、ほとんどお客さんも増えなかったので、まずは映画で身を立ててからまたお芝居をしようと思って、いったんお芝居はやめました。そこからはずっと映画を撮っていますね。とはいえ短編が主で、勉強といえば「小津安二郎語録」を読んだだけ。映画の学校にも行っていない。70分超えの長編映画は『イノセント15』がはじめてです。映画を撮りはじめたのが2006年頃なので、長編映画を撮るまでに10年くらいかかったということですね。

——ちなみに、映画は今もあまりご覧になりませんか?

以前、緒方明監督とお仕事をしたことがあって、そこで「映画見ろ!」ってすごく怒られたので(笑)、それ以来、なるべく見るようにしています。ただ、シネフィルみたいな感じではないですね。監督でいえば、ラース・フォン・トリアーやミヒャエル・ハネケが好きです。ポン・ジュノも好きですが、『パラサイト』はあまりにもうまくパズルがはまりすぎていて、組み木細工を見ているような気分で、心を揺さぶられるところまではいきませんでした。むしろ最近だったら『ジョーカー』は、そこに人間がちゃんといると思いましたね。ただ、邦画ではあんまりそういうものがないような気がするんです。それこそ今村昌平さんとかを見ていて感じるような熱気や、人間がどうしようもなく生きてるっていう感覚をあまり感じたことがなくて、だからそういう熱さというか、汗をかいて必死で生きているような人を描きたいという気持ちはあります。

5分前でも5分後でも撮れなかったものが撮れた瞬間

——演じることより書く方に興味がわいた、とおっしゃっていましたが、そのころから「感情」を描きたいと思ってらしたんでしょうか。

そうですね。こんな物語が見たい、っていう気持ちも強いですし、感情が描きたいという気持ちもある。僕、昔から自分の感情が自分であまりよくわからないので、感情を探しているところがあるんだと思います。感情の蓋が閉まっているというか、扉が閉まっている。だから皆が「好きだ」とか言っているのもあまり信用できないし、薄っぺらい感じがしちゃったりするんです。だから、どうして自分はそんな風に考えるんだろう、ということが知りたくて、感情を探して世の中をさまよっているんじゃないかと思ったりします。多分、答えはないんですけどね。

——そういうときに、小説だったり映画だったり漫画だったり、すでに世界に存在している「物語」に感情を探しにいったりは?

本を読んで、答えが見えたなと思ったことは一度もないですね。僕、川端康成が好きなんですけど、彼の本を読んで感じるのって、うまく説明のつかない、でも色がついているような感情だったり、ねばねばしているような触感を感じる感情だったりする。そういった言葉にならないものを言葉にならないまま受け取って、おもしろいなあと思うことはあるんですが、「ああ、これね」と思ったことはないです。言葉にできないからこそ探しているのかもしれません。ただ、映画作りに関しては、この瞬間、この光がこう入ったときの画の気持ちよさ、みたいな単純に美的な気持ち良さは好きです。それは撮影に入ってからの話で、脚本を書いているときは考えていないことですが。

——では脚本・監督業をやっていて、いちばん楽しいタイミングは?

そうですねえ、やっぱり「今、素晴らしいものが目の前で生まれている」と感じる瞬間でしょうか。もちろんそのワンシーンで映画全体が変わるとまでは思わないんですが、5分前では絶対に撮れなかったし、5分後にも撮れないものが今、撮れたぞっていう瞬間。「宝物を撮った!」みたいに感じられるときは嬉しいですね。それと僕、脚本を書いているときって、自分も物語に出ているんですよね。芝居をやっていたときに僕、主演だったせいかもしれませんが(笑)、書いているときも誰かの視点のところに自分がいて、その物語を生きている。その、皆より先にその映画のなかでお芝居をしているような感じが気持ちいいな、楽しいなって思いながら書いていますね。

——ちなみに『イノセント15』のときはどこに視点がありましたか?

あのときは、僕、銀君でした(笑)。

——だから銀君はなかなか感情の蓋が開かないんですね(笑)

そうですね(笑)、そういう意味では似てますね。僕はあまり見せすぎない、説明しすぎない映画が好きなんです。だから説明が多い映画を見ていると、説明書を読んでいるような気になるんですよね。全部答えが出ているというか。現実って、もっとわからないことがいっぱいあるから、考える余地は残して欲しいなあ、映っていないものに思いを馳せて欲しいなあという気持ちになる。だから自分でもそこを探りつつ脚本を書いています。とはいえ、あんまりわかりにくくてもダメですから、そのバランスは難しいですよね。実は「イノセント15」を書き終わってから、ようやくきちんと脚本を勉強するようになって(笑)。勉強すると失うものもあるんですけどね。僕は脚本を一気に書けなくなってしまって、しばらく書けない状態が続きました。ただ、書き方を学ぶと見せ方もわかってくるので、そのバランスがうまくとれるようになったら、もう少し広いところにもっていけるような作品を作りたいと思っています。料理にたとえるなら「食べやすさ」みたいな部分ですね。「食べてみたらすごく変な味がした」のならいいんですけど、最初から皆が食べないものにはしたくないな、という気持ちが強くなりましたね。

『イノセント15』で知った、宣伝の重要さ

——経験のない人が映画を撮ろうと思った場合、撮影自体はできると思うんですけど、それを劇場にかけるのは難しいですよね。

僕も最初は映画館にかけることはまったく考えてなくて、どうせ面白いんだから撮ったらどうにかなるだろう、みたいな感じでしたね。そのまま何も知らずにPFF(ぴあフィルムフェスティバル)に出して賞をいただいたんですけど、そのときも僕、グランプリだと思っていたくらいで(笑)。ただ、当時は映画館へのあこがれや愛情みたいなものがあまりなかったんです。子どもの頃から映画館へは行かない家だったので。だから最初は劇場にかけることはあまり考えずに撮っていたんですが、だんだん落ち着いてきて、作ったからにはいろんな人に見て欲しいなという気持ちが強くなっていった。『イノセント15』はその集大成で、ちゃんとお金をとって劇場に人を呼ぶことをやらなきゃそろそろだめだぞ、ということがわかった作品です。自分で劇場に電話をして「かけてくれ」ってお願いしたり、宣伝も一からやって、テアトル新宿の前でチラシを配ったり、地道なこともようやくできるようになりました(笑)。この作品で宣伝を学びましたね。

——制作準備の段階から、そういうことは考えていましたか?

そのころはまだそこまでは考えてなかったです。賞を獲って、勝手に広がらないかな、くらいの考えでした。考えが変わったきっかけは、田辺弁慶映画祭。その頃はまだグランプリ気質だったので(笑)、グランプリが獲れなくてすっごく悔しかったんですけど、映検審査員賞という賞をいただいて、受賞者はテアトル新宿で数日だけ上映権がもらえたんです。さらに「それを満席にしたら1週間上映を考えるよ」と言われ、はじめて僕の宣伝に対する気持ちに火がついた。「絶対満席にする!」と、いろんなカードを切りました。もう身内でもなんでもいいから、となんとか満席にして1週間上映ができた。そこでいろんな人に見てもらえて、いろいろなつながりができ、アップリンクにもつながったという感じですね。宣伝の力はやっぱり大きいです。しかも今は口コミが強い。その辺の仕掛け方など、当時はあまりわかってなかったですが、その後のそれこそ『カメ止め』の動きなんかを見ていると、すごいなあと思いますね。

——インディーズ映画の場合、お金をどう集めるかという問題もありますね。

『イノセント15』も、最初はもう少し低予算でいけるかな、と思っていたんです。宣伝もあまり考えてなかったですし。撮影前に仕事をして貯めたお金と、途中からクラウドファンディングで集めたお金と、トータル200万円くらいが純粋な制作費です。そこから宣伝やらなんやらでプラス300万円くらいかかっているので、クラウドファンディングには助けられました。

実は僕、『イノセント15』の舞台挨拶で、「今後は商業映画しか撮りません」って宣言したんですよ。というのも自主映画というくくりだと、どうしてもスタッフさんへお金が全然回らないのがとても嫌で……。だから、ちゃんとその人たちが生活できるようなお金を回せない映画はもう撮りません、って宣言して。もちろん商業映画といってもピンキリで、多分、僕が監督できるのは数千万くらいの規模。そこで企画が通れば行けるかな、という感じですね。今はそこに向けて脚本を書いている状態です。

甲斐博和監督の作品