CINEMA DISCOVERIES

悪意が攻撃に転ずる恐ろしさと、浮き彫りになる相対的な幸せ

文:ヒナタカ

 『先生を流産させる会』。なんとおぞましいタイトルだろうか。信じがたいことに、中学生が担任教師を流産させる目的で給食に異物を混入させた事件は2009年に現実に起こっており、“流産させる会”も本当にあったものだ。
このような酷い事件をなぜ映画にするのか、と疑問に思う方もいるだろう。個人的には、そのような悪意を持つ子供が(現実にも)存在するということ、その悪意が攻撃に転じた理由を知ることで、逆説的に劇中のラストで訴えているメッセージを肯定するということ、そして「加害者に何を教えられるのか」と思想を巡らせられることに、本作の意義があるのだと考える。

劇中で加害者となる女子中学生たちは、決して全てが理解できないモンスターというわけではない。例えば、流産させるために給食に異物を混入させるという行為が“いたずら”の延長線上にあることは、序盤のスーパーのシーンから示されていている。リーダー格の少女に逆らえず流されるままに加担しているという弱々しさ、排他的で独善的なモンスターペアレントに抑圧されるなどの家庭環境もつぶさに描かれ、彼女たちが未成熟な“子供”であるということは伝わってくる。そのため、先生や大人が子供である彼女たちに何かを教えてあげることで、最悪の悲劇は避けられるのではないか、とも思えるようになっているのだ。

なお、実際の事件での加害者は男子生徒たちであったが、映画では女性生徒に変えられている。性別を変更した理由について、内藤瑛亮監督は“妊娠している”ことそのものに嫌悪感を感じさせるキャラクターにしないと、訴えたいテーマに迫れなかったのだと語っている。確かに、男子生徒だと「ただ嫌いな先生だから酷い目に遭わせる」という妊娠そのものとは関係のない単純な(それもおぞましいが)発想になってしまいそうなところだが、女の子であれば妊娠は自身にも起こり得ると認識する事象であり、その「自分も妊娠する」という思春期ならではの自己嫌悪こそが他者への攻撃の引き金になるという理由付けも生まれている。

 では、内藤瑛亮監督が本作で目指したものは何だったのか……それは「否定されることへの拒絶感を突き詰めて描くことで、逆に肯定したいものを浮き彫りする」ということにもあったそうだ。
本作での「流産させる」という言葉にとてつもない拒絶感を覚えるのであれば、それとは真逆の「無事に赤ちゃんが生まれてくる」ことの素晴らしさを肯定できるということでもある。「加害者も不幸」「加害者の親の存在」「傷つけたことの代償」など、加害者の視点に立ち、その悪意が攻撃に変わり、後戻りできない悲劇へと展開していく様を描くというのは、内藤瑛亮監督の後の作品『ミスミソウ』にも通じており、悪意が攻撃に転ずる恐ろしさを示しているからこそ、それが起こらないことに幸せを相対的に噛み締められるようになっている、と言ってもいいだろう。

 『先生を流産させる会』のラストで訴えられたメッセージは、悲劇そのものが“ある”と存在そのものを示している。そのメッセージと同様に、この映画を観ている私たちも学べるだろう。きっと、子供たちに教えられることはある、そこに希望はある、と。

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