CINEMA DISCOVERIES

Special Features 野本梢監督特集

〈私/わたし〉と「ふつう」

文:折田侑駿

野本梢監督による5作品──『私は渦の底から』(2015)、『わたしが発芽する日』(2016)、『朝をこえて星をこえて』(2017)、『はじめてのうみ』(2017)、『次は何に生まれましょうか』(2019)が現在配信中である。

本稿では、社会派的側面をもったものから、軽快でチャーミングなものまで、インディペンデント映画・シーンにおいて、じつに多彩なフィルモグラフィーをもつ彼女の作品の魅力に迫りたい。野本監督の作品に通底してみられるのは、ズバリ、〈私/わたし〉の発見、獲得、あるいは回復である。

〈私/わたし〉とは何か?

ここでいう〈私/わたし〉とは何なのか。まず、「私」や「わたし」とせずに、あえてわざわざ〈私/わたし〉と、わずらわしい表記にしたのには理由がある。野本監督作品に登場する人物たちがつかみ取る、そのひと固有のアイデンティティーは、年齢や性別といった“属性”に縛られるものではないことを強調したいがためだ。そもそも「自己=私」というものはひじょうに複雑で、それと向き合うのは“わずらわしい”もの。それに、2020年度の「学習指導要領」によると、「私」という漢字は小学6年生で習うらしい。つまりそれより年少の者は、「私」を「わたし(あるいは、「あたし」)」と結び付けられない可能性がある。しかし、年少者のなかにも「私」は存在するだろうし、成人した者のなかにも「わたし」は存在するはずなのだ。つまり誰しものなかに、世間向けの「私」と、そことは切り離された幼い「わたし」が混在しているのだと思う。このことを大前提としたい。

さて、『私は渦の底から』は、自身のセクシャリティに悩みを抱えるヒロインを見つめた作品だ。彼女は同性の親友に対して抱く想いを断ち切ろうと決意するのだが、なんとその親友から、同性のパートーナーがいるのだと告白されることに──。

なんとも胸が苦しくなる作品である。しかし、意中の相手に想いを伝えられずにいたところ、その相手からパートーナーを紹介されるというのはよくある話。ヒロインが自身のセクシャリティへの疑問を隠していた/隠さざるを得なかったというのが、本作の要だ。そこから、“セクシャルマイノリティはふつうではない”という、本作の劇中における社会の前提を読み取ることができると思う。実際に劇中でヒロインも、「ふつうの恋愛がしたかった」というようなことを口にしている。ではここでいう「ふつう」とは何なのか? 野本監督作には、この「ふつう」という言葉がしばしば登場する。そして誰もが、この「ふつう」に翻弄されている。じゃあいったい、この「ふつう」とは?
 

「ふつう」とは何か?

 『わたしが発芽する日』では、結婚を控える姉と、空気を読むのが苦手な妹、そしてそんなふたりを取り囲む人々との関係が描かれている。妹は“空気を読むのが苦手”というよりも、コミュニケーションを取ることが得意ではないようだ。彼女は興味のあるものに対しては積極的なものの、その付き合い方があまりうまくできない。大好きな植物のお店のバイトに就くも、そこで「ふつうに(仕事などが)できないよね」と言われてしまう。

 本作でも「ふつう」というものが登場。ここでいう「ふつう」とは、周囲に気を配りつつ、指示されたとおりに動き、円滑なコミュニケーションを取ることができるかどうかというものだ。こちらでは姉妹というごく親しい関係性を描くことによって、近親者だろうとも、それぞれの「ふつう」が異なるものであることを浮かび上がらせている。しかも、姉には姉の人生があり、そこでは彼女が何かを選択する権利がある。その選択の先にあるのは、妹との生活によって手放さざるを得なかった〈私/わたし〉を取り戻すものでもあるだろう。そして姉は自身の選択によって、またも手放さざるを得ないものがある。人生とはこの「ふつう」とのせめぎ合いと、ある種の取捨選択の連続だ。そこで取る(得る)ものと、捨てる(手放す)もの。この困難を本作は姉妹の関係をとおして映し出しているものと思う。

 『朝をこえて星をこえて』は、老年にさしかかったひとりの男性の姿をユニークに綴った作品だ。朝めざめ、顔を洗い、用を足し……というような、男やもめである主人公のごく淡々とした日常から物語は始まる。おそらく彼は、ほとんど同じような日々を繰り返しているのだろう。ところがある日、ひとりの女子高生と出会うことで、彼の日常はささやかながらも大胆に変化してく。

 彼が公園で読書をしていると、しおりが風に舞い、それを拾った女子高生と交流をもつことになる。「しおり」とは読書において、いまどこまで読んでいるのかを記録するものだ。それは物語を歩むうえで、いま自分がどこにいるのか、その現在地を刻む。単調な日常を送っているのであろう彼の場合は、おそらく決まったページ数しか読み進めることはしないのだろうと思う。少しずつ前進はするが、そこに見られる変化は物語上に定められたものでしかない。ところがもし、しおりがなかったら?──物語は飛躍することだろうし、あるいは過ぎた時に逆戻りしていく可能性だってある。

 この女子高生の登場によって男性は、ちびっこたちからさまざまな職種の人々までとの交流をもつことになる。離れていた他者(コミュニティ)との繋がりだ。こうしたなかで彼は、単調な日常によって失われていた〈私/わたし〉を回復する。いや、彼の過去が描かれているのではないから、新しい〈私/わたし〉の発見・獲得かもしれない。

 掌編といってもいい16分の『はじめてのうみ』は、ところ変わって舞台は学園。思春期の少年少女を主軸においた物語によく見られる“スクールカースト”というものが、主人公である女子高生の視点によって見えてくる。“学園モノ”にありがちな設定ではあるが、主人公のアイデンティティーの揺らぎまで描くことによって、ほかとは趣を異にしている印象だ。

 本作で特筆すべきは、幼き誰もが自分の立ち位置というものを“無意識的に自覚している”ということ。といえば何やら矛盾しているようだが、ことはそう単純でない。複雑なのだ。少年少女たちは日々を過ごすなかで、ごく自然にカーストを生み出している。そこで主人公は、人々の無意識に傷ついた友人の声を代弁するかのように、自らが声を上げる。しかしこれは“友人の声”ではなく、見紛うことなき“主人公の声”だ。この声とは、それまで無意識のうちに抑え込まれていた、彼女自身の“心の声”だろう。これを発するということは、つまり、心の内にある「自己」と出会うことでもあるのだと思う。彼女は“心の声”を噴出させることによって、〈私/わたし〉と出会うのだ。
 

〈私/わたし〉と「ふつう」の関係をめぐって見えてくるもの

 筆者がもっとも関心を寄せたのは、ここに並べられた作品のなかでは“近作”である『次は何に生まれましょうか』だ。本作が、本稿で述べたかったすべてを体現している。  この物語で描かれるのは、現代社会における、シングルマザー・聡美とその娘・望結の関係。聡美は望結のことを「ふつう」とは違うというふうに思っているが、やがて自分自身も社会の「ふつう」とは違うのではないかと思い当たる。本作ではシングルマザーの困難や、「ふつう」を強いる社会や親(聡美の母)との軋轢がひしひしとリアルに映し出される。

 前者、シングルマザーの困難に関しては、誰もが目にし、耳にする問題だ。それこそリアリティをもって胸に迫ってくるものではないかと思う。ところが後者に関しては、いったいどれくらいのひとが向き合えるのだろうかと思う。筆者自身も「ふつう」に対する違和感は感じているが(だからこそ、いまこれを書いている)、この親子とは取り巻く環境がまったく異なるのだ。

 聡美は母から「どうしてふつうの親になれないのか?」と問われ、自分を責め、「ふつう」に適応しようと努める。だからこそ彼女は、愛娘である望結にもほかの子どもたちと同じような「ふつう」を強いる。「なぜみんなと同じようにできないのか?」──と。しかし、この母娘が「ふつう」から外れていることを受け入れ、それぞれの〈私/わたし〉を受け入れることが本作の要だ。聡美は自分のことを「人間失格」だというが、否、もっとも人間らしいと筆者は思う。それはラストシーン、母娘で純粋に遊びに興じる光景からみとめることができるだろう。

 クライマックスでの聡美の笑顔を見ていると、社会のしがらみにがんじがらめになって、“恥の多い生涯”を送っているのは自分なのではないかと考えさせられる。そんな自分をつくったのは、この〈私/わたし=観客〉にほかならない。だがしかし、いまこれを書いている〈私/わたし〉の「ふつう」と、これを読んでいるあなたの「ふつう」もまた異なるのだ。

 野本監督作品は、一連をとおしてこそ見えてくるものがあると思う。作品ごとの〈私/わたし〉というのは、置かれている環境をはじめ、もちろん異なる存在だ。一連の作品に連続して触れてみることで、観客が自身の内なる〈私/わたし〉を知り、また、他者のなかにも自分たちと同じように〈私/わたし〉が在ることを理解できるはずである。
 




   
  • 『次は何に生まれましょうか』
  • 『私は渦の底から』
  • 『わたしが発芽する日』
  • 『はじめてのうみ』
  • 『朝をこえて星をこえて』